変な家/残穢を鑑賞した。

雨穴の変な家と竹内結子主演の残穢を鑑賞した。

どちらも住居にまつわる怖い話という共通点がある。

 

変な家の方は別途感想を書いたので、残穢の方だけ感想を残す。

 

感想は一言で言うと、末恐ろしい、だった。

ことの発端は女子学生が引越した新居の和室から異音がするという、大したことない現象だったのだが、そこからそのマンションについて、ひいてはその土地について掘り下げて調べていくうちに、次々と不気味な事実が発覚していく。

やがてはある一つの事件が全ての発端であったと言うことが判明するのだが、その事件から波及した影響が大きすぎて、人間の業とは恐ろしいものだなと驚嘆させられた。

終わり方も後味悪く、不気味さがずっと脳裏に糸引く様な感じに仕上がっているのだが、

もう一つその恐怖に拍車をかけているのが、主演の竹内結子が2020年に自殺している、と言う事実だ。ホラー映画を見て、戦々恐々としている時に、出演俳優の現在を調べて元気そうにしているのを確認するという、心の休息法を行うのだが、主演が若くして自殺している、と言うのでは、ますます不安が残る。

この映画との直接的な因果関係は考えにくいとは思うが、映画の内容からすると、もしかして…と余計な勘繰りを入れてしまいたくなる気持ちもある。

 

…そんな作品だった。

 

 

高価な所有意識、扉を残しておきたい問題

我々は自分が所有するものに、実際の価値以上の評価をしてしまいがちだという。

自分が買った車、自分がリフォームした家。。

ところが、自分では高い評価をしているにも関わらず、他人からしてみれば、それはなんら価値にはならない。

 

この話を聞いて前住んでいた部屋の防音加工のことを思い出した。初心者DIYゆえに綺麗な出来ではなかったが、何もない部屋に防音効果が付加されるので、退去時そのまま残しても、物件としての価値が上がるため、問題ないのではないか、と一瞬ではあるが考えていたのだ。

冷静になった見ると、誰しもが防音効果を求めているわけではないし、ましてや、見てくれの好みの個人差が分かれそうだったので、むしろ人によっては、物件の値下げを交渉してくるかもしれない。ー結局私は泣く泣く防音加工を全て引き剥がして処分するのだった。

 

もう一つのトピックはより今の自分にとって、重要な話だ。

人は常に選択肢を手元に残して置きたがるという話だ。現実には片方だけを追い求める方が、経済的にも精神的にも良かったとしてもだ。

スティーブ・ジョブズの言葉を思い出す。「最も重要な決定は、何をするかではなく、何をしないかを決めることだ」

悩んでいる時間、あるいは、本気でやりたくないことについて時間を使うのは愚の骨頂であるということだ。

 

本当にやりたいこと、それがないならば、最もマシなことをできるだけ長時間できるように、

人生を計画していくべきだ。

 

 

 

 

 

予想通りに不合理2

読書の続きだ。読み進めるうちにどんどん面白くなってきた。

社会規範と市場規範という二つの対立する概念が登場している。

今までは全く無意識の概念だったが、これが不思議なことに、語彙を知った瞬間、すっと懐に馴染んでくる。あーこれこれ、と言わんばかりに。

社会規範は、お金に縛られない、人間の信頼関係などを重きに置く場の概念。

市場規範は、お金によってコントロールされるフェアで無機質な概念。これにより友好関係が結ばれることはまずないが、迅速で安心できる公平な取引が可能となる。

 

今回興味深かったのは以下の点。

 

・恋愛において給与水準などの希望を掲げることは、社会規範に市場規範を持ち込むことになり、うまくいかない可能性が高まる。

マッチングアプリ等で、年収1000万以上とかいう条件を出してる奴がいるが、そんな条件を出してしまっては、男側も商取引感覚になり、それでは相手は十分なメリットを現状もその先も提供してくれるのか、と訝ることになるだろう。

 

・無料の二つの側面。一つは、無料は需要を爆上げする力があるということ。1円との間には大きな違いがある。もう一つは、無料が単なるギブアウェイの場合、市場規範でなく社会規範の方を促してくるため、我々は他人の利益や自身のメンツなどを考慮し、行儀良い振る舞いをしがちだということだ。(飲食店店頭のキャンディなども一人2個以上もらう図太い神経の人はなかなかいないだろう)

 

・無料は社会規範を、有料は市場規範を、労力はその中間の性質を誘発する。

 

 

今の私

今日は、本心やる気の全くない公務員事務職員の応募用紙を記入・提出した。

人はなぜ同じ過ちを繰り返すのだろうか。

前の仕事で分かったことは、仕事なんて大半がつまらない、ということだった。

事務的なデスクワークが結構多かったのでなおさらだ。

 

ここでおいおい待てよ、ということになる。

さっき申し込んだのって、一般事務職なんだぞ。

ということは前職以上に事務一色になることが推測される。

 

仮に採用されたとしても、また早々に辞めたくなって、自分も採用側も残念な気持ちで終わるのではないだろうか。

あるいは多少やることも環境も変わっているので、案外続けられるのだろうか。

 

自己分析、自分を見つめ直す作業は何度もやった。

だが結局向いているあるいはやりたい「仕事」なんてやってみないと分からないのだ。

それでも経験済みの仕事と共通しているものがある仕事ならば、ある程度予想できるのでは?

 

この際だから、学生時代の自分の得意分野に全振りできるような仕事をするのが無難な様な気もする。その場合においても、長らく磨かれておらず錆びついた刃なので、相当な労力を持って、勉強する必要があるとは思うが。

 

 

予想通りに不合理

「最も高いセックスは、無料のセックスだー」

 

予想通りに不合理を読んでいる。

 

行動経済学の観点から、人間が犯しがちな判断の不合理性について明かしていく。

なかなか興味深い。

 

・価格のアンカリングの話

⇨人は物事の価値を相対的に評価しているため、最初に提示された価格を基準にしてしまう

 

・無料パワーの話

⇨無料は1円とは大きく異なる唯一無二の価格。人はとにかく無料に弱く、無料の絡む選択肢を提示されると、よく吟味すれば他方より得でない場合においても無料の絡む選択肢を選んでしまう。

これを利用して、客を集めたい場合には無料をうまく駆使すると良い。

 

・社会規範と市場規範の話

⇨我々は無意識のうちに社会規範と市場規範を使い分けている。友人や家族が絡むイベントにおいては往々にして社会規範を適用し、そこに市場規範を持ち込むとうまくいかない場合が多い。(友人の家族に料理を振る舞ってもらってお金を払おうとしたらどうなるだろうか?)

だが、プレゼントであれば、社会規範の中に収まりうまくいきやすい。

(友達の家に泊めてもらうとき、現金でなく、ちょっとした手土産を持っていくと喜ばれるのが良い例だろう)

 

 

今日も残念ながら中身がなかった

今日は何をしただろうか。

朝から、友人に散歩に付き合ってもらった。

地元に帰ってきたものの、孤独であることについて嘆いた。

ゆっくり落ち着いて話ができた様に思う。

特に何か解決法が見出されたわけではないが、やはり人に話をすると言うだけで、胸の内が幾分スッキリするものだ。

 

宮沢賢治注文の多い料理店を読んだ。

基本童話でどこかしらメルヘンチックな世界観で統一されている。

ただし、どっぷり浸かることはない。途中で飽きてしまった。

なんだこの薄い感想。

 

自転車で免許証を受け取りに行った。

写真は間抜けな顔をしていた。

有効期限が21年10月末とあるので、結局まもなく更新じゃないか。

 

帰ってから、予想通りに不合理を読んだ。

人には理性があるというが、何度も犯してしまう不合理というのがごまんとある。

今日の主な内容は、おとりの選択肢によって、売りたいものの売り上げを伸ばせる、という話だ。消費者の視点からすると、おとりの選択肢によって、販売者の狙い通りの商品を選ぶように誘導されてしまうということだ。

これって、普段あまり意識していなかったが、かなり多く実例がある気がする。

 

 

 

 

 

 

2年ぶりの更新 現在の心境

友人の影響で2年ぶりにブログを更新することにした。

ただ現在の心境を吐露しようと思う。

 

この2年で、自分を取り巻く状況は大きく変わった。

2年前は、人生にまだ希望も不安もあった新社会人になる前のただの学生だった。

が、今は退職し、人生にも自分にもある種の絶望とも言える諦めがついたくそニートだ。

 

最近までは必死に曲を作っていたが一昨日完成し、ひと段落というところだが、何もやる気が出ない。仕事がないのだから、どんどん本を読むなり、映画、アニメを見るなり、新たな音楽を聞くなりすれば良いのだが、せいぜいしょうもない動画や、くだらない記事を読むくらいで1日を終えてしまっている。

その一方で、最近よくつるむ友人は、仕事をしているというのに、信じられないくらいの量のコンテンツに触れ、また自身もブログやラジオなどで発信活動をしているのだ。

量の差が圧倒的に違うと思った。この差はなんなのだろう。

ただ多くのコンテンツに触れたからといって、人生が豊かになるわけではないと思うが、何にも触れなかったものよりは、多くの文化に触れたことになり、アイディアというか何かこう脳内の引き出し琴線が増えていくのではないかという気がする。

グダグタ言うのなら、何か見ればいいじゃないかと言う話なのだが、なんだか死にたい気持ちになる。

とにかく自分はくだらない存在なのだ。そんなことあえて言わなくても、この世の中に存在しているものなんて、大体くだらないが、もうどうしようもないのだ。

こんなものが、あと5年、10年、20年、40年と生きたとて何になるのだ。

ただ、今は親に助けられ、迷惑をかけてしまっているし、このタイミングで投げ出すと言うのは、この大きな生ゴミとしても、やや心苦しいものがある。